エリオは深く息を吸い込み、便箋の端を持ち直すと、ゆっくりと折り目をほどいていった。 カデルらしい筆跡だ。鋭く、どこか癖のある線。伝えたい情報だけが端的に記されてある。「リノアとエレナという人物がフェルミナ・アークに向かっているらしい」 読み進めるにつれ、エリオの表情が徐々に変わっていく。「ノクティス家……」 その名に至ったとき、エリオは一度手紙から目を離した。 遠くを見るように視線を泳がせ、何かを探すように空を仰ぎ見る。「エリオ、どうしたの?」 ナディアが問う。「そのリノアという人が、どうやらノクティス家の血を引いているようなんだ……」 どうして、そのような人間がフェルミナ・アークに行く必要があるのだろうか。深刻な理由でもあるとでもいうのか。 エリオは再び便箋に目を戻し、残りの文を読み進めていった。 その瞳には、かつて戦場で情報を読み解いていた者の鋭さが見て取れる。「ノクティス家って何?」 ナディアが首を傾げる。「ゾディア・ノヴァにとっては、脅威になり得る存在。だけど見方を変えれば、利用価値の高い血筋とも言える。この名家の者には代々受け継がれる特殊な力があるからね。それは戦術にも、政治にも、信仰にも影響を及ぼすほどのものなんだ。その血筋の者が動き始めたということは、ただ事ではないってことは確かだ」 ナディアが息を呑む。 エリオは少しだけ間を置いてから、さらに続けた。「ノクティス家の者だけじゃない。クローヴ村のクラウディアとグリモア村のグレタも動いている。均衡が崩れ始めているようだ。平穏はもう、形だけのものと言って良い」 風が苗の葉をそっと揺らし、遠くで鳥がひと声だけ鳴いた。空気が何かを告げようとしている。「また戦いが始まるってこと?」 ナディアが心配そうにエリオを見つめた。「分からない。何が起きているのか、何を目的に彼らが動いているのか、この手紙だけでは……」「また私たち、どこか遠くへ逃げなきゃならないのね」 ナディアがエリオを見つめ、そして続けた。「一体いつまで、こんな生活を続けなければ……」 そう言って、ナディアは目を伏せた。 雲がゆっくりと流れ、井戸の水面がわずかに波打つ。 エリオは読み終えると、便箋を丁寧に折り直し、ナディアの方へ向き直った。「確かに、いつまでもこんな生活はできないよな」 エリオ
陽が傾き始めた頃、ナディアは畑の端で土をならしていた。手には鍬、足元には根を張り始めた若い苗。風が吹くたびに葉が揺れ、土の匂いが空気に溶けていく。そのとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。乾いたリズムが畑の静けさを切り裂くように近づいてくる。ナディアが顔を上げると、荷馬車がゆっくりと柵の前で止まった。手綱を引いていたのは、見慣れた配達人だった。彼は帽子を持ち上げると、軽く会釈をした。「ナディアさん。情報屋“カデルからの手紙です」ナディアは鍬を地面に立てかけて、手を拭いながら配達人に歩み寄った。「ありがとう。助かります」配達人は頷き、馬車を回して去っていった。「カデル……どうしたのかしら」思わず声に出す。封書には見覚えのある印が刻まれている。何かあったのだろうか──そう思いながら、ナディアは手紙を持ったまま畑を後にした。エリオは井戸のそばで薪を割っていた。斧が木を裂く音が、一定の間隔で空気を叩く。斧の振るい方には、かつて剣を握っていた者の癖が残っている。 だが、その肩はわずかに凹み、静かな暮らしの積み重ねが、動きの鋭さを少しずつ鈍らせていた。「エリオ」ナディアが声をかけると、彼は振り返った。「カデルから、手紙が届いたわ」エリオは斧を地面に置き、手を拭いながらナディアに近づいた。ナディアが封書を差し出すと、エリオはそれを受け取り、しばらく無言で見つめた。「……カデルが、俺に?」思いがけない名を聞き、エリオが戸惑いを見せる。封を切る前から、軽い話ではないことを悟っているようだった。紙越しに伝わる重さは、言葉のそれではなく、過去の気配──ナディアは黙って、エリオの様子を伺う。風が二人の間を通り抜け、木々のざわめきが遠くで応えていた。エリオが封を切る。中から現れたのは、折り目のついた一枚の便箋。その筆跡を目にした瞬間、エリオの表情がわずかに揺れた。「カデルの字だ。嫌な予感がする」かつて命を託すしかなかった相手。信頼とは違う、だが、背を預けた時間は確かにあった。それしか選択肢がなかったからだ。 過去の記憶が、便箋のインクの匂いと共に蘇る。ナディアは一歩近づき、そっと問いかける。「何て書いてるの?」エリオは便箋を手にしたまま、ナディアの問いかけに反応しなかった。視線がどこか遠くを見ている。エリオが小さく息を
村人たちの喧騒をよそに、クラウディアは自宅へと向かった。 扉を閉める音が、外のざわめきからクラウディアを切り離す。 日が暮れかかり、家の中は薄暗い。クラウディアは窓辺に置かれたランタンに火を灯すと、懐に入れていた、もう一通の手紙を取り出した。 イオから手紙が来るとは珍しい。 イオはフェルミナ・アークの研究者として知られる人物だ。きっと何かあるに違いない。 封を切る手が自ずと慎重になる。 急いで書いたのか、感情が高ぶっているのか、イオの筆跡は、いつも通り整ってはいても、どことなく足早な印象が感じられた。 文の流れが妙に早く、文面に、いつもの余白がない。何かに追い立てられているような調子だ。グレタがエクレシアへ向かおうとしている。何を話したか不明だが、グレタとゾディア・ノヴァの接触があった。そしてゾディア・ノヴァの元兵士であるエリオ。この人物は現在、フェルミナ・アークを離れ、今は郊外で生活している。彼にも手紙を送っておいた。じきアークセリアに来るだろう、合流した後は私の娘であるセラ、クローヴ村のアリシアとヴィクター、エリオ、その恋人ナディア。彼らと共にエクレシアへ向かう予定だ。恐らくゾディア・ノヴァは勢力を拡大しようと目論んでいる。何としてでも阻止すべきだ。リノアとエレナがフェルミナ・アークに乗り込んでいる。今こそ叩くべき時──イオ・マルヴェルより クラウディアは目を細め、文面を何度も読み返した。 ゾディア・ノヴァ──その言葉が、かつての戦火の記憶を呼び起こす。 クラウディアは手紙を膝の上に置き、しばらく動かなかった。 外では風が戸を揺らしている。 その音が遠くの戦の足音のように聞こえた。──リノアとエレナがフェルミナ・アークに足を踏み入れた……か。やはり、あの二人は何かに導かれている。 驚くべきなのは、アリシアとヴィクターの動向だ。 戦う術を持たないはずのアリシアとヴィクターが、危険を承知の上で禁足地へ向かおうとしている…… 驚きと共にクラウディアの胸にひとつの問いが浮かんだ。なぜ、彼らは行かねばならないのか。 リノアとエレナだけに背負わせたくはない。その想いがあるのは分かる。そして、それぞれが何を背負い、何を失ったか。それもよく分かっているつもりだ。 しかし、それだけでは説明がつかない。──何かが彼らを引き寄せ
クラウディアはイオからの手紙を懐に入れると、エルディア家からの封書を、その場で封を切った。 村人たちがその様子を見守る。 手紙には、グリモア村のグレタとゾディア・ノヴァの動向に関することが記述されてあった。──グレタは各国の名家の元を訪ね歩いていたのか。「ゾディア・ノヴァが再び動き出している。各地の国々に密かに使者を送り込み、協力を仰いでいるらしい」 グレタの言葉は簡潔だったが、そこには強い警告が込められていた。 その使者は、協力の見返りとして領土の分配を約束したという。 ゾディア・ノヴァとしては魅力的な条件を提示したつもりなのだろう。浅はかな考えだ。 クラウディアは手紙を読み終えると、そっと目を閉じた。 ゾディア・ノヴァ──その名が再び動き出したと聞いても、驚きはしない。 クラウディアは、かつてその前身となるセリカ=ノクトゥムに仕えていたことがあった。あの頃から、彼らの思想は変わっていない。 言葉巧みに理想を語り、協力を求めるふりをして、裏では領土と権力の掌握を企てる。その手口は洗練されているが、根底にある思想は古びたままだ。「相変わらず。狂っている……」 クラウディアが呟く。 領土の分配── それは、かつて何度も繰り返し聞かされた悪しき言葉だ。それは誰かの犠牲の上に築かれる秩序であり、誰かの沈黙を前提とした繁栄だ。 今はどこの国も平穏を取り戻しており、領土を拡大したいなどという時代錯誤な考え方をする名家は存在しない。その静けさを乱すような提案を、名家が本気で受け入れるはずがない。得るものより、失うものの方が遥かに多いのだ。 仮に動く国がいたとしても、一つか二つだろう。しかし、その一歩が大きな崩れを生む。 クラウディアは足を止めて、遠くの丘の上を見据えた。風が髪を揺らし、乾いた草がざわめく。 空は澄んでいる。しかし、その静けさがかえって不気味だった。 境界の向こうから亡霊のように、ゾディア・ノヴァの影が忍び寄っている。 楽観視するわけにはいかない。 クラウディアの視線は、かつて仕えていた国の方角を無意識に探していた。 あの地から放たれる使者の足音は影のように忍び寄り、しかし確実に世界を揺るがす。 かつて多くの者があの者たちに翻弄され、そして沈んでいった。その記憶は風景の中に埋もれても、クラウディアの中では決して色
クローヴ村に到着した頃には、陽はすでに傾き始めていた。空は淡い橙に染まり、木々の影が長く伸びている。 街道の修繕を終えたクラウディアたちは、村の広場へと歩を進めた。 村の広場には数人の村人が集まっている。干し草を束ねる者、井戸の水を汲む者、子どもを抱えて家路を急ぐ者。どこか落ち着いた空気が漂っているが、クラウディアはその静けさの奥に僅かながら違和感を感じ取った。「何か、おかしなことは?」 クラウディアが声をかけると、見張り役の男はすぐに反応した。まるで言葉を待っていたかのように、素早く顔を向ける。「異常は一件。夜半、森の方で物音。枝を踏むような重い足音です。誰かが通ったものと思われます。確認はできませんでした」 彼の言葉は簡潔で、訓練されたような調子だった。 クラウディアはクローヴ村を囲った境界線を想像した。急いで編まれた簡易的な境界線。あの程度のものならすぐに突破できるはずだ。それを踏まえると、最初から村への襲撃は考えていなかったと見るのが普通だ。 簡易的なものとは言え、作ったのには理由がある。あれは音を鳴らすためだけのもの。誰かが縄に触れれば鈴が鳴る。たった、それだけの仕掛け。 わずかな警告。ほんのわずかな時間稼ぎ。それだけでも、少しは村人たちを安心させることができる。それは欺瞞かもしれない。だが欺瞞もまた時には必要だ。恐怖に飲まれぬためには、形だけでも秩序を保たなければならない。 クラウディアは、あの結び目を編んだ夜を思い出した。 誰もが黙り込み、震える手で縄を編む音だけが村の広場に響いていた。 あれは防壁というよりは祈りに近い。信じるための線── この場所に、まだ希望が残っていると誰もが思えるように。そんな願いが、ひとつひとつの結び目に込められている。「今夜は、もう少し見張りを増やしましょう」 クラウディアは見張り役の男に告げた。 今、クローヴ村には戦える者がほとんど残っていない。戦乱後、多くの兵士は行方知れずとなり、その後の平穏な日々で兵士は育っていないのだ。 残った兵士は僅か。しかし、かつて森を駆け回った兵士も今となっては年老いた。武器を手に取り戦うことは、もはや不可能だろう。守る意志があったとしても力が及ばない。“重い足音”を深追いしなかったのは正解だった。 とにかく今は情報を集めること。相手の動きを見極めること
エレナは矢筒に手を戻しながら、目を細めた。──倒した。 氷が軋む。 だが、執行者の身体はそのまま凍結され、動く気配はない。 確かに動きは止まった── リノアとリュカは無事だろうか。 そう思い、エレナが振り向く。 焚火の光に照らされたリノアはまだ眠りの中にあり、胸がわずかに上下している。その安らかな寝顔にエレナは少しだけ頬を緩ませた。──あれっ、リュカは…… リュカの姿がどこにも見当たらない。 しかし、気配は感じる。 今、この沈黙の中にいるのは、夢の中のリノアと、氷に囚われた執行者──そして、気配だけを残すリュカ。 風が止み、森が息を潜める。 リュカは、つい先ほどまで敵だった。あの執行者と同じ側にいた人間だ。幾らか緩和したとは言っても、ゾディア・ノヴァの教えが完全に無くなったわけではない。 まさか…… 疑念が胸をよぎる。先ほどまでのリュカの姿は演技だったのか。 エレナは弓を握り直し、前を見据えた。 焚火の向こうに揺れる影── 指先が冷え、心臓が一拍遅れて脈打った。 リュカだ。 だが、リュカは闇の向こうの存在を見ていない。その視線が捉えていたのは、エレナだった。 リュカの瞳に冷徹さが戻っている。感情のない、命令を遂行する者の目──「……終わったと思ったのか?」 リュカは剣に手をかけ、ゆっくりと構えを取った。 その声は低く、冷たい。まるで執行者の声が乗り移ったかのようだ。 焚火の光が刃に揺れ、沈黙が鋭く裂かれる。 その動きにエレナは息を呑んだ。 目の前にいるのは、先ほどまでのリュカではない。意志を抜かれた操り人形のようだった。 リュカは微動だにしない。 その沈黙は刃よりも鋭い。 焚火の炎が揺らめく中、エレナは息をすることさえ忘れ、リュカを見続けた。 エレナがリュカの動きを注視していた時──氷の中の執行者が笑った。 その瞬間── エレナの背後から何かがエレナの背中に襲い掛かった。 それはリュカでもなく、執行者でもない。名もなき闇。 エレナが振り返るより早く、黒い霧のような腕が喉元を狙って伸びる。──しまった。避けられない……「伏せろ!」 リュカが剣を振るって闇の腕を弾き飛ばす。 火花が散り、空気が震える。焚火の光が一瞬、逆巻くように揺れた。「油断するな、あれこそが術者だ」 リュカの目は変わ